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明治18年頃編纂「五品共進会解説」他資料抜粋

文政末年に神田惣兵衛が死没して後、三輪明神窯は一旦廃業しましたが、天保年間(1830-44)に三田町の向井喜太夫が窯を買受営業しました。
しかし、嘉永の末年に再び断絶しました。
これを嘆いた田中利右衛門が窯を購入して修繕を加えて安政元年(1854)の初年二月に再び青磁を焼くようになったと記されています。
志手原村の陶工として小西藤兵衛と常吉の両名が上がり、藤兵衛の項目には、弊家陶業ノ創始タル、現今古書類ノ徽スへキナシト雖モ、距今百二三十年前、即チ宝暦明和ノ頃、祖先金兵衛ナルモノ之ヲ開業セシナリト云フ。
と、祖先の金兵衛が窯を開いたのは宝暦・明和(1751〜72)の頃と記されています。
三輪明神窯の創業が寛政11年(1799)ですから、志手原窯は三田焼最古の窯ということになります。
しかし、本文には、今はそれを裏付ける古文書などは一切ないと記されていますので、小西家で言い伝えられた伝承であったと思われます。
藤兵衛は一時職工数十名を雇い、売上金も数千円に達したが、「図ラサリキ時機一変」が起こり営業を縮小したとあります。
また、
小西常吉の項目には彼が藤兵衛の実弟で、明治8年に分家して陶器業を始めたと記されています。



現在、志手原の地には3基の窯が残っています。
志手原の三叉路を花山院方面に入って右手の雑木林には2基の古窯跡があり、そこから西方へ200mほど1基が残ります。
後者は大正8年(1919)頃に藤兵衛の息子の百助が開いた窯です。
したがって、前者の2基のいずれかが創業時の窯とも思われますが、これまで発掘調査が行われていませんので、これらがいつごろ操業していたかはわかっていません。
三輪明神窯跡は三田市教育委員会によって発掘され、3基の窯が検出されました。
第3号窯が江戸時代後半、第2号窯が江戸時代後半から幕末、第2号窯が幕末から昭和10年頃まで操業したと考えられていますので、それぞれが神田、向井、田中の窯であったと考えられます。



昭和2年(1927)に生まれた、百助氏の末娘うめの氏は、昭和10年代の百助窯の様子を次のように語っています。
当時の百助窯は5袋の登窯で、1年に2・3回火入れしました。
原料の陶土は旧窯脇の畠の赤土を取り、彼女は母とともに庭上で土漉し作業を手伝いました。
作業場では父百助が蹴轆轤(けりろくろ)で小型の煎茶器を挽き、兄の与一が手轆轤で大型の植木鉢を挽きました。
時々、絵付師の内田久太郎がやってきて煎茶器に巧みに絵付けを行うこともありました。
植木鉢が出来上がると業者がトラックで神戸まで運んだそうです。
百助窯の閉窯は昭和19年頃を言われていますが、
うめの氏の記憶によれば、兄二人が兵隊に取られたため窯を維持することができず、昭和12・13年頃には操業を止めていたといいます。


近代の志手原焼の変遷は次のように推測できます。
まず、明治中期から大正期にかけて志手原旧窯では呉須手の染付や色絵の鉢や皿などの食器を中心に生産していました。
先に触れたように、三田三輪明神窯でも、明治20年代から、伝統的な大型の青磁置物・花瓶などの製作から、皿・鉢などの飲食器、茶器類製作へと展開します。
小西両家に残る染付や赤絵の鉢・皿は、このような三田焼の変化を如実に表すものでしょう。
続く大正末から昭和にかけて、志手原新窯では煎茶具と植木鉢を中心とする生産へと移行していったと思われます。
私は、ここに志手原焼が昭和10年代まで命脈を保つことができた鍵があると考えています。

近代日本の窯業は、明治末から大正にかけて大規模な工場生産の段階へと移行します。瀬戸、九谷などの巨大な窯業地を抱える名古屋、金沢、そして京都などの都市には近代的な機械を導入した工場が設立されます。
そこでは石膏型や機械轆轤によって、皿、鉢、碗などの食器類が量産されました。
安価な工場生産の食器は市場を席巻し、その結果、全国に散在した小規模な窯業地は廃絶を余儀なくされていったのです。
確かに、一般の人々の食膳に供する飯茶碗や皿類は工場での量産が可能でしょう。

しかし、機械では作ることができないものもあります。
煎茶具や植木鉢はその典型です。
三田焼の最後の陶工小西百助氏が轆轤で丁寧に挽いた煎茶碗や宝瓶形の急須、桃実形の湯さましは、素朴で雅趣に満ちています。
植木鉢も盆栽用の上手の作品で、円筒形・水盤(すいばん)形・鉄鉢(てっぱち)形と多彩な器形をもちます。
煎茶席・盆栽席などに用いる道具は、それが特殊な趣味の世界のものであるがゆえに、陶工が自らの手作りが最も用に叶うものでした。
それを求める特殊な受容層を市場に、この窯は昭和初頭まで存続しえたのでしょう。

この調査の折、私は信楽焼の研究者から興味深い話を聞きました。
大正から昭和初頭にかけて、信楽焼の諸窯でも、製品の主流は煎茶具、盆栽用植木鉢、そして火鉢であったという話です。
信楽は中世以来の大規模な窯業地でしたが、山間部にあるため明治末からの工場生産による近代窯業の波には乗れませんでした。
戦後の1960代から、伝統工芸品や民芸品を焼く窯として信楽は再び脚光をあびますが、それまでの間、信楽は手作りの煎茶具・植木鉢・火鉢で命脈を保っていたのでした。

三田焼は戦後の民芸ブームを迎えることはできませんでした。
それ以前に窯の火を消したのです。
三田焼最後の陶工、小西百助氏は、昭和50年7月18日、86歳で死没しました。
しかし、時折、三田のゴルフ場に来る人々に自作を販売していたそうです。

調査品には新聞紙で梱包され、紐をかけた煎茶具のセットも認められました。
百助氏は、もういちど窯に火を入れることを願いつつ、これらの製品を梱包したのでしょう。

江戸時代後半に開かれた三田焼は、維新の動乱を乗り切って明治、大正、昭和をしたたかに生き抜いた地方窯の典型でしょう。
それを、京都、有田、瀬戸などの大規模な窯業地と比較するとき、近代日本の窯業の真の姿が重層的に浮かび上がってくると私は思います。

京都清水焼の陶工、真清水蔵六(1821−1877)の著書『蔵六漫筆古陶録』のなかの記述、「寛政年代攝津有馬郡志手原土焼始る、三輪方面に土焼物始まる」があります。
最近になって代々志手原窯主であった小西家から見つかった初代小西金兵衛の位牌の没年月日が宝暦13年(1763)10月10日となっているところから開窯は宝暦年間かそれより前という説も出てきています。


肥前藩は1637年(寛永16年)、藩主鍋島勝茂の命令の下、有田焼(伊万里焼)の品質向上と機密保持を進めました。
品質向上の為、窯数を限定して粗製濫造を防ぎ、機密保持の為、職人が自宅で作業するのを禁じ、窯場周辺には職人以外の居住を禁じたほどの徹底ぶりだったとそうです。

       

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